大平洋を航海した時の記録が電子出版されることになりました。
2021-07-14
久しぶりに投稿します。
ブログをお読み頂き有難うございます。
このブログでご紹介してきました、2015年から2016にかけて太平洋を航海しました時の準備や航海日誌などの記録が、アマゾンのKindleから電子書籍として出版されることになりました。

この記録は、最初 2017年3月に 『ヨット「TSUYOTAKA」太平洋横断往復航海の記録』 としてまとめられ、ヨットの先輩の知り合いの印刷屋さんに印刷して頂いて、お世話になった方々や、応援して下さった方々にお礼のしるしとしてお配りしました。
今回、自ら編集し個人的に印刷した拙い記録本が、(株)22世紀アートという出版社に見つけて頂き、電子書籍として出版することのお誘いを受けました。
最初は躊躇したのですが、印刷本は部数に限りがあったためお配り出来なかった方もおられることと、もしこれから外洋へ出ることを考えている方がおられましたら、その際に少しでも参考にして頂ければと思い、営利目的でないことを条件に電子書籍として出版して頂くことにしました。
内容は、これまでこのブログでご紹介してきました投稿記事に、加筆、修正、写真などを加えて編集したものです。
ただし、使用機器やデータなどは既に6~7年以上前の物になってますので、その点はご注意下さい。
また、販売価格は無料にしてほしいと依頼したのですが、最低価格があるとのことで250円に設定せざるを得なかったことをお許し下さい。
ヨット「TSUYOTAKA」
古賀 道明
ブログをお読み頂き有難うございます。
このブログでご紹介してきました、2015年から2016にかけて太平洋を航海しました時の準備や航海日誌などの記録が、アマゾンのKindleから電子書籍として出版されることになりました。

この記録は、最初 2017年3月に 『ヨット「TSUYOTAKA」太平洋横断往復航海の記録』 としてまとめられ、ヨットの先輩の知り合いの印刷屋さんに印刷して頂いて、お世話になった方々や、応援して下さった方々にお礼のしるしとしてお配りしました。
今回、自ら編集し個人的に印刷した拙い記録本が、(株)22世紀アートという出版社に見つけて頂き、電子書籍として出版することのお誘いを受けました。
最初は躊躇したのですが、印刷本は部数に限りがあったためお配り出来なかった方もおられることと、もしこれから外洋へ出ることを考えている方がおられましたら、その際に少しでも参考にして頂ければと思い、営利目的でないことを条件に電子書籍として出版して頂くことにしました。
内容は、これまでこのブログでご紹介してきました投稿記事に、加筆、修正、写真などを加えて編集したものです。
ただし、使用機器やデータなどは既に6~7年以上前の物になってますので、その点はご注意下さい。
また、販売価格は無料にしてほしいと依頼したのですが、最低価格があるとのことで250円に設定せざるを得なかったことをお許し下さい。
ヨット「TSUYOTAKA」
古賀 道明
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夢実現までの道のり - 夢の実現へ導いてくれた数多くの出会い(最終回)
2016-11-20
2016 年 11月 20日(日) 12時 30分 記
やっと太平洋横断航海の記録をまとめることが出来ました。
だらだらと長い文章をお読み頂き有難うございました。
航海の記録をまとめることが出来ましたことで一区切りつきましたので、今回で 『TSUYOTAKA航海日記』 を終了したいと思います。
2012 年 3月 15日にブログをスタートして以来、4 年と 8 ヶ月余りの長きにわたりご愛読頂き有難うございました。
無事太平洋を渡ることが出来ましたのも、皆様の温かいご指導、ご支援、ご声援の賜物と心より感謝しています。
このブログを始めた 2 日後の、2012 年 3月 17日には、『夢の実現へ向けて』 と題して自分の気持ちを記しましたが、その時でもまだ太平洋横断の夢を口に出すことは出来ませんでした。
太平洋を渡りたいという気持ちだけは持ち続けていたのですが、どこから、どう手を付けたら良いのか全くと言って良いほど分からず、外洋へ出ることの恐怖心は計り知れないものがありました。
とりあえず、日本を回ろうと言うのが当時の正直な気持ちでした。
そして、日本周航へ向けて清水港から出航した初日、2012 年 3月 26日に運命的な出会いがあり、夢の実現へ向けて大きな一歩になりました。
今回の太平洋横断を、少年時代のヨットとの出会いから振り返って、『夢実現までの道のり - 夢の実現へ導いてくれた数多くの出会い』 としてご紹介させて頂いて、ブログの締めくくりとさせて頂きたいと思います。
=======================================
『夢実現までの道のり - 夢実現へ導いてくれた数多くの出会い』
<< ヨットとの出会い >>
10 歳 (1960年) の時だったと思う、ヨットが何故走るかと、風向に対するセールの調整方法を図示した本を偶然読んだ。
今でもその図をはっきりと覚えている。
10 歳の時の夏、猪苗代湖で生まれて初めてヨット ( ホビーキャットに似た小型のカタマラン ) に出会った。
当時としては珍しいレンタルヨットだった。乗ってみたいと思った。
<< 『太平洋ひとりぼっち』 との出会い >>
12 歳 (1962年) の時、堀江謙一さんが太平洋単独横断に成功し、ゴールデンゲートブリッジをくぐってサンフランシスコに入港した。
10 歳の時にすでにヨットに興味を持っていた自分に取って、この出来事は衝撃的だった。
この時から、将来自分もヨットをやりたいと思うようになった。
19 歳 (1969年) の時、大学に入ってヨットを始めた時から、太平洋を横断することを夢として心の片隅に置いた。
しかし、それは全く現実味のない、空想と言っても良いほどのものだった。
<< クルーザーヨットとの出会い >>
22 歳 (1972年)、大学 4年生の秋、ヨット部の現役生活を退いた後の半年間ほど、縁あって 38 フィートのクルーザーヨットにクルーとして乗せてもらっていた。
相模湾でレース主体に活発に活動していたヨットで、自分にとって初めてのクルーザーヨットとの出会いだった。そのヨットで素晴らしい体験をさせてもらい、夢は大きく膨らんだ。
このヨットで教えてもらったことは、今なお自分のヨットと、心の中で生きている。
<< 加山雄三さんの曲、『 海、その愛 』 との出会 >>
大学卒業後、造船会社に就職してサラリーマンになった。
仕事は多忙を極め、経済的にも余裕は無く、夢の実現どころか夢を持ち続けることさえ難しかった。
加山雄三さんの 『 海、その愛 』 に出会ったのはそんな時だった。
加山雄三さんに夢を持つこと、夢を持ち続けることの大切さを教えられた。
『たとえ独りでも星をよみながら、波の上を行こう...』、 『たとえ一度でも、嵐のりこえて遠い国へ行こう...』、これらのフレーズは自分の夢と一致した。
<< 2 回目のクルーザーヨットとの出会い >>
35 歳の時だったと思う、会社の同期入社の友人が中古のクルーザーヨット 「 ヤマハ 25 MkⅡ」 (25 フィート) を購入した。
意外と簡単にクルーザーヨットを持つことができるんだなという印象を持った。手が届かないところにあると思っていたクルーザーヨットが、自分でも持てるかもしれないと思った。
その友人には年に何回か乗せてもらい、伊豆七島をクルージングして、八丈島へも行った。オーナーが岡山県に転勤した時は、千葉から岡山までの長距離航海も経験した。
この時に体験したこと、学んだことの多くは、今回の太平洋横断に生かされている。
これが夢実現の第一歩だった。
<< 尾道海技学院での出会い >>
37 歳の夏、広島県の尾道海技学院で合宿講習を受けて、一級小型船舶操縦士の免許を取得した。
今にして思うと、多忙だったサラリーマン時代に、11泊 12日の合宿講習に良く参加できたと思う。何かに取りつかれたように申し込んだ。
その時の同級生何人かとは、今でもお付き合いさせて頂いている。
<< 自艇との出会い >>
37 歳の冬、横須賀市の会社へ出向になった。
その会社にクルーザーヨットを持っている人がいて、ヨットに乗せてもらった。諸磯の良い環境でヨットに乗れることが羨ましかった。
会社の帰りに、横浜市金沢区の平潟湾の横を通ることがあり、そこにたくさんのクルーザーヨットがブイ係留されているのを見ていた。自分もクルーザーヨットを持ちたいと強く思った。
そんなある日、『 KAZI 』 誌の 「売りたし、買いたし」 欄に、10 年物の中古クルーザーヨット 「 ヤマハ 25 MkⅡ」 (25 フィート) が、まさにその平潟湾の係留権付きで売りに出ていた。
当時はクルーザーヨットを買えたとしても係留場所が無かったので、これだ!と思ってすぐに連絡して見に行き、その場で購入を決めた。
40 歳 (1990年) の時だった。これは、夢実現への大きな前進ではあったが、まだ太平洋横断とは結び付いていなかった。
<< 現在のヨットとの出会い >>
45 歳の時に会社を変わった。
仕事は以前よりも多忙になり、毎日夜の9 時、10 時、時には12 時近くまで仕事をして、土曜日は毎週のように出勤した。それに加えて 2 日 ~ 4 日間の出張が月に 1 ~ 2 回あった。
しかし、面白い会社で、残業手当は出なかったが、食事代と称して手当が出た。出張手当も悪くなかった。これらを貯めた。
47 歳の時、ヨットを一回り大きくしたいと思い、30 フィート前後の中古ヨットを探していた。
そんな時、偶然見た 『 KAZI 』 誌のニュージャパンヨットの広告ページの片隅に、フローティングボートショウ展示艇、「エスプリ・ディユ・バン 」 (30 フィート) を格安で販売しますとの広告を見付けた。
これだと思い、すぐに連絡を取って見に行き、その場で購入を決めた。
48 歳 (1998年) の時に、このヨットは遊漁船に真後ろから激突されて、マストは折れ、船体は大破した。
自分ともう一人の乗員は海に投げ出されたが、九死に一生を得て助かった。
ヨットは全損になり、賠償で新艇になった。
それが現在のヨットであるが、このヨットと太平洋横断はまだ結び付いていなかった。
<< 竹内まりやさんの曲、『 人生の扉 』 との出会い >>
50 歳 (2000年) の夏休みに、仲間と伊豆七島へクルージングに出かけた。
自分は夏大好き人間だった。夏は黙っていても毎年必ず来るので何も感じなかったが、その時ふっと、あと何回夏を健康で迎えることができるのだろうかと思った。
60 歳を超えたら、両手で数えられるほどではないかと思った。そう思ったら、居ても立っても居られなくなり、サラリーマン生活は60 歳で止めようと思った。
しかし、その後も多忙な生活は続き、夢の実現など考えようもなかった。
57 歳の時だったと思う、出張先の宿舎で何気なく見ていたテレビで、NHKの音楽番組 『SONGS 』 が始まり、竹内まりやさんが 『人生の扉 』 をピアノの弾き語りで歌い始めた。
良い曲だなと思って聴いていると、『満開の桜や、色づく山のもみじを、この先いったい何度見ることになるだろう』という歌詞が飛び込んできて、頭をがーんと殴られた気がした。
そう、50 歳の時に感じた 『あと何回、夏を健康で迎えることが出来るのだろう』 という気持ちと一致した。
その時、改めて60 歳で仕事を止めようと決意すると同時に、仕事が多忙であることを良いことに、何もしないで流されている生活が無駄に思えてきた。気力と体力がある内にやりたいことをやらなければならないと強く思った。
その時以来、定年後の経済的生活基盤の確立と、太平洋横断のための資金確保に注力するようになった。
<< 新たな仕事との出会い >>
59 歳 (2009年) の時に、多忙な仕事に終止符を打ち、自分の本当にやりたい仕事をやってサラリーマン生活を終えようと思い転職した。
この仕事は、地方の仕事場に数ヶ月から1年間、単身で赴任、駐在して、デスクワーク 3 割、肉体労働 7 割という仕事だった。体はきつかったが、8 時から 17 時のきっちりした仕事で、自由時間をたっぷり取ることができた。
飲酒量は大幅に減り、健康状態は飛躍的に改善した。
この時になっても太平洋横断のことは、まだ手つかずで、どこから手を付けたら良いかすら分からなかった。
しかし、定年退職後はヨットで日本を回ることを考えていた。
そのためにはヨットの改造が必要だったので、頭の中であ~しよう、こうしようと考えていたが、どこへ改造を頼んだら良いか全く分からず、見当も付かなかった。
<< ヨットビルダーとの出会い >>
61 歳 (2011年) の夏 (57 歳の時の決断に反してまだ仕事をしていた )、ヨットの天井灯の電球が切れた。
この機会に電球を LED に変えようと思い、10 年以上ご無沙汰していたニュージャパンヨットに連絡したところ、ヨットを購入した時に営業を担当していた S さんがご健在で、親切に対応してくれた。
その時、ヨットの改造について相談してみようと思った。
早速改造仕様書を作って、ニュージャパンヨットに見積もりを依頼した。
ニュージャパンヨットと数回の打ち合わせを行った後、ニュージャパンヨットへ改造をお願いすることにした。
ニュージャパンヨットは、静岡県の御前崎の近くの内陸に工場があるため、ヨットを陸揚げした後、工場まで陸送する必要があった。その分費用が余分に掛るが、ヨットの改造を、そのヨットを造った造船所で行うことが何よりも良いことは素人でも分かった。
2011年 12月、ヨットを横浜から清水港まで回航して、ニュージャパンヨットの工場へ搬入した。
<< 余談、世の中は本当に狭いということを感じた出会い >>
61 歳 (2011年) の12月末、会社を定年退職した。
出勤最終日に、皆さんの前で挨拶をして、退職後はヨットで日本を回りたいと話したところ、少しして同僚の女性がやってきて、「父がヨットで日本を回りました」 と話してくれたので驚いた。
ヨットで日本の隅々まで回り、ホームページで詳細な泊地情報を紹介してくれている、有名なヨット乗りの方のお嬢様だった。
<< 太平洋を単独横断したヨットマンと、無線のプロとの出会い >>
62 歳 (2012年) の3月、ヨットの改造、整備が終わり、清水港の富士山羽衣マリーナで進水した。
富士山羽衣マリーナで準備をして、3月 26日に日本周航へ向けて出航した。
初日は御前崎マリーナを目指したが、出港後南西の風が強くなってきたため、初日でもあり無理をせずに焼津港の近くの用宗フィッシャリーナに入ることにした。
フィッシャリーナに入ると、桟橋でもやいを取ってくれた人がいた。
その人は、ヨット 『 風韻 』 のオーナーで、太平洋を単独で渡ったことのある K さんだった。
自分も近い将来太平洋を渡りたいと話したところ、自分のヨットを見せてくれて、いろいろ教えてくれた。
後日、K さんに太平洋横断について 1~10 まで教えて頂いた。
この時、K さんに友人のヨット乗りの無線のプロを紹介して頂いた。
かつてマグロ船の通信長をしていた F さんで、ヨット 『福丸 』 のオーナーだった。
太平洋を渡るのに、何から始めたら良いか全く分からないでいた時に、太平洋単独横断の経験者に巡り会い、ヨットを見せてもらい、いろいろ教えてもらった。
無線の知識が全く無くて困っていたところに、無線のプロとも巡り会うことが出来た。
このことは、夢の実現に向けて大きな一歩になった。
この出航初日、良い風が吹いて、御前崎マリーナにすんなり到着していたら、このお二方に巡り会うことは無く、太平洋横断の夢はどうなっていたか分からない。
<< 日本周航中の出会い >>
62 歳~64 歳までの 3 年間、ヨットで日本を周った。
その間たくさんの方々にお会いして、助けて頂き、教えて頂いた。
太平洋を横断した人にも何人かお会いして、貴重な助言を頂いたり協力して頂いた。
世界を何周も回った人にもお会いした。
<< 夢の実現へ導いてくれた数多くの偶然の出会い >>
夢は、常に忘れることなく、強く思い続けていれば必ず実現するということは昔から言われていた。
しかし、それだけで夢が実現するとは思えなかった。
今、夢が実現して、その道のりを振り返ってみると、数多くの偶然の出会いがあった。
人との出会い、クルーザーヨットとの出会い、仕事との出会い、雑誌の広告との出会い、音楽との出会い、ヨットビルダーとの出会いなど偶然の出逢いが、節目ふしめで夢の実現へ向けて、背中を押してくれたり、自分を引っ張って行ってくれた。
これは、心の片隅ではあっても夢を忘れることなく持ち続けていたことにより、何でもない出会いが貴重な出会いになって、夢の実現へ向けて導いて行ってくれたのだと思っている。
別の見方をすると、何か目に見えない力が、これら貴重な出会いへと導いて行ってくれたのではないかとも思っている。
<< 夢の実現 >>
65 歳の初夏、2015 年 5月 21日早朝、静岡県清水港の富士山羽衣マリーナからサンフランシスコへ向けて出航した。
未明の雷雨がうそのように晴れた。その時の身震いするような緊張感を今でも覚えている。
富士山が楽しんでこいよと見送ってくれた。
同年 7月 13日 午前 7時 30分、ゴールデンゲートブリッジをくぐった。
夢実現の瞬間だった。
長かったなと思った。
それは、夢を抱いてから半世紀余りの時間と、清水港を出てから 55 日目という日数と、両方の想いだった。
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長い間のご愛読有難うございました。
いつか、どこかでお会いできますことを楽しみにしております。

2016 年 11月 20日
ヨット 「TSUYOTAKA」
古賀 道明
追伸 ;
このブログは、FC2 ブログが許してくれる限りこのままにしておきます。
ブログへのコメントは常時ワッチしていますので、ご質問などありましたら、メールアドレスをご記入の上コメントをお寄せ下さい。
2012年、2013年、2014年の日本周航時の航海記録(寄港地情報)も、古くなって、現在の状況に合わなくなっている部分も多いと思いますが、エクセルファイルにまとめてありますので、ご希望される場合はメールアドレスをご記入の上コメントをお寄せ下さい。
やっと太平洋横断航海の記録をまとめることが出来ました。
だらだらと長い文章をお読み頂き有難うございました。
航海の記録をまとめることが出来ましたことで一区切りつきましたので、今回で 『TSUYOTAKA航海日記』 を終了したいと思います。
2012 年 3月 15日にブログをスタートして以来、4 年と 8 ヶ月余りの長きにわたりご愛読頂き有難うございました。
無事太平洋を渡ることが出来ましたのも、皆様の温かいご指導、ご支援、ご声援の賜物と心より感謝しています。
このブログを始めた 2 日後の、2012 年 3月 17日には、『夢の実現へ向けて』 と題して自分の気持ちを記しましたが、その時でもまだ太平洋横断の夢を口に出すことは出来ませんでした。
太平洋を渡りたいという気持ちだけは持ち続けていたのですが、どこから、どう手を付けたら良いのか全くと言って良いほど分からず、外洋へ出ることの恐怖心は計り知れないものがありました。
とりあえず、日本を回ろうと言うのが当時の正直な気持ちでした。
そして、日本周航へ向けて清水港から出航した初日、2012 年 3月 26日に運命的な出会いがあり、夢の実現へ向けて大きな一歩になりました。
今回の太平洋横断を、少年時代のヨットとの出会いから振り返って、『夢実現までの道のり - 夢の実現へ導いてくれた数多くの出会い』 としてご紹介させて頂いて、ブログの締めくくりとさせて頂きたいと思います。
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『夢実現までの道のり - 夢実現へ導いてくれた数多くの出会い』
<< ヨットとの出会い >>
10 歳 (1960年) の時だったと思う、ヨットが何故走るかと、風向に対するセールの調整方法を図示した本を偶然読んだ。
今でもその図をはっきりと覚えている。
10 歳の時の夏、猪苗代湖で生まれて初めてヨット ( ホビーキャットに似た小型のカタマラン ) に出会った。
当時としては珍しいレンタルヨットだった。乗ってみたいと思った。
<< 『太平洋ひとりぼっち』 との出会い >>
12 歳 (1962年) の時、堀江謙一さんが太平洋単独横断に成功し、ゴールデンゲートブリッジをくぐってサンフランシスコに入港した。
10 歳の時にすでにヨットに興味を持っていた自分に取って、この出来事は衝撃的だった。
この時から、将来自分もヨットをやりたいと思うようになった。
19 歳 (1969年) の時、大学に入ってヨットを始めた時から、太平洋を横断することを夢として心の片隅に置いた。
しかし、それは全く現実味のない、空想と言っても良いほどのものだった。
<< クルーザーヨットとの出会い >>
22 歳 (1972年)、大学 4年生の秋、ヨット部の現役生活を退いた後の半年間ほど、縁あって 38 フィートのクルーザーヨットにクルーとして乗せてもらっていた。
相模湾でレース主体に活発に活動していたヨットで、自分にとって初めてのクルーザーヨットとの出会いだった。そのヨットで素晴らしい体験をさせてもらい、夢は大きく膨らんだ。
このヨットで教えてもらったことは、今なお自分のヨットと、心の中で生きている。
<< 加山雄三さんの曲、『 海、その愛 』 との出会 >>
大学卒業後、造船会社に就職してサラリーマンになった。
仕事は多忙を極め、経済的にも余裕は無く、夢の実現どころか夢を持ち続けることさえ難しかった。
加山雄三さんの 『 海、その愛 』 に出会ったのはそんな時だった。
加山雄三さんに夢を持つこと、夢を持ち続けることの大切さを教えられた。
『たとえ独りでも星をよみながら、波の上を行こう...』、 『たとえ一度でも、嵐のりこえて遠い国へ行こう...』、これらのフレーズは自分の夢と一致した。
<< 2 回目のクルーザーヨットとの出会い >>
35 歳の時だったと思う、会社の同期入社の友人が中古のクルーザーヨット 「 ヤマハ 25 MkⅡ」 (25 フィート) を購入した。
意外と簡単にクルーザーヨットを持つことができるんだなという印象を持った。手が届かないところにあると思っていたクルーザーヨットが、自分でも持てるかもしれないと思った。
その友人には年に何回か乗せてもらい、伊豆七島をクルージングして、八丈島へも行った。オーナーが岡山県に転勤した時は、千葉から岡山までの長距離航海も経験した。
この時に体験したこと、学んだことの多くは、今回の太平洋横断に生かされている。
これが夢実現の第一歩だった。
<< 尾道海技学院での出会い >>
37 歳の夏、広島県の尾道海技学院で合宿講習を受けて、一級小型船舶操縦士の免許を取得した。
今にして思うと、多忙だったサラリーマン時代に、11泊 12日の合宿講習に良く参加できたと思う。何かに取りつかれたように申し込んだ。
その時の同級生何人かとは、今でもお付き合いさせて頂いている。
<< 自艇との出会い >>
37 歳の冬、横須賀市の会社へ出向になった。
その会社にクルーザーヨットを持っている人がいて、ヨットに乗せてもらった。諸磯の良い環境でヨットに乗れることが羨ましかった。
会社の帰りに、横浜市金沢区の平潟湾の横を通ることがあり、そこにたくさんのクルーザーヨットがブイ係留されているのを見ていた。自分もクルーザーヨットを持ちたいと強く思った。
そんなある日、『 KAZI 』 誌の 「売りたし、買いたし」 欄に、10 年物の中古クルーザーヨット 「 ヤマハ 25 MkⅡ」 (25 フィート) が、まさにその平潟湾の係留権付きで売りに出ていた。
当時はクルーザーヨットを買えたとしても係留場所が無かったので、これだ!と思ってすぐに連絡して見に行き、その場で購入を決めた。
40 歳 (1990年) の時だった。これは、夢実現への大きな前進ではあったが、まだ太平洋横断とは結び付いていなかった。
<< 現在のヨットとの出会い >>
45 歳の時に会社を変わった。
仕事は以前よりも多忙になり、毎日夜の9 時、10 時、時には12 時近くまで仕事をして、土曜日は毎週のように出勤した。それに加えて 2 日 ~ 4 日間の出張が月に 1 ~ 2 回あった。
しかし、面白い会社で、残業手当は出なかったが、食事代と称して手当が出た。出張手当も悪くなかった。これらを貯めた。
47 歳の時、ヨットを一回り大きくしたいと思い、30 フィート前後の中古ヨットを探していた。
そんな時、偶然見た 『 KAZI 』 誌のニュージャパンヨットの広告ページの片隅に、フローティングボートショウ展示艇、「エスプリ・ディユ・バン 」 (30 フィート) を格安で販売しますとの広告を見付けた。
これだと思い、すぐに連絡を取って見に行き、その場で購入を決めた。
48 歳 (1998年) の時に、このヨットは遊漁船に真後ろから激突されて、マストは折れ、船体は大破した。
自分ともう一人の乗員は海に投げ出されたが、九死に一生を得て助かった。
ヨットは全損になり、賠償で新艇になった。
それが現在のヨットであるが、このヨットと太平洋横断はまだ結び付いていなかった。
<< 竹内まりやさんの曲、『 人生の扉 』 との出会い >>
50 歳 (2000年) の夏休みに、仲間と伊豆七島へクルージングに出かけた。
自分は夏大好き人間だった。夏は黙っていても毎年必ず来るので何も感じなかったが、その時ふっと、あと何回夏を健康で迎えることができるのだろうかと思った。
60 歳を超えたら、両手で数えられるほどではないかと思った。そう思ったら、居ても立っても居られなくなり、サラリーマン生活は60 歳で止めようと思った。
しかし、その後も多忙な生活は続き、夢の実現など考えようもなかった。
57 歳の時だったと思う、出張先の宿舎で何気なく見ていたテレビで、NHKの音楽番組 『SONGS 』 が始まり、竹内まりやさんが 『人生の扉 』 をピアノの弾き語りで歌い始めた。
良い曲だなと思って聴いていると、『満開の桜や、色づく山のもみじを、この先いったい何度見ることになるだろう』という歌詞が飛び込んできて、頭をがーんと殴られた気がした。
そう、50 歳の時に感じた 『あと何回、夏を健康で迎えることが出来るのだろう』 という気持ちと一致した。
その時、改めて60 歳で仕事を止めようと決意すると同時に、仕事が多忙であることを良いことに、何もしないで流されている生活が無駄に思えてきた。気力と体力がある内にやりたいことをやらなければならないと強く思った。
その時以来、定年後の経済的生活基盤の確立と、太平洋横断のための資金確保に注力するようになった。
<< 新たな仕事との出会い >>
59 歳 (2009年) の時に、多忙な仕事に終止符を打ち、自分の本当にやりたい仕事をやってサラリーマン生活を終えようと思い転職した。
この仕事は、地方の仕事場に数ヶ月から1年間、単身で赴任、駐在して、デスクワーク 3 割、肉体労働 7 割という仕事だった。体はきつかったが、8 時から 17 時のきっちりした仕事で、自由時間をたっぷり取ることができた。
飲酒量は大幅に減り、健康状態は飛躍的に改善した。
この時になっても太平洋横断のことは、まだ手つかずで、どこから手を付けたら良いかすら分からなかった。
しかし、定年退職後はヨットで日本を回ることを考えていた。
そのためにはヨットの改造が必要だったので、頭の中であ~しよう、こうしようと考えていたが、どこへ改造を頼んだら良いか全く分からず、見当も付かなかった。
<< ヨットビルダーとの出会い >>
61 歳 (2011年) の夏 (57 歳の時の決断に反してまだ仕事をしていた )、ヨットの天井灯の電球が切れた。
この機会に電球を LED に変えようと思い、10 年以上ご無沙汰していたニュージャパンヨットに連絡したところ、ヨットを購入した時に営業を担当していた S さんがご健在で、親切に対応してくれた。
その時、ヨットの改造について相談してみようと思った。
早速改造仕様書を作って、ニュージャパンヨットに見積もりを依頼した。
ニュージャパンヨットと数回の打ち合わせを行った後、ニュージャパンヨットへ改造をお願いすることにした。
ニュージャパンヨットは、静岡県の御前崎の近くの内陸に工場があるため、ヨットを陸揚げした後、工場まで陸送する必要があった。その分費用が余分に掛るが、ヨットの改造を、そのヨットを造った造船所で行うことが何よりも良いことは素人でも分かった。
2011年 12月、ヨットを横浜から清水港まで回航して、ニュージャパンヨットの工場へ搬入した。
<< 余談、世の中は本当に狭いということを感じた出会い >>
61 歳 (2011年) の12月末、会社を定年退職した。
出勤最終日に、皆さんの前で挨拶をして、退職後はヨットで日本を回りたいと話したところ、少しして同僚の女性がやってきて、「父がヨットで日本を回りました」 と話してくれたので驚いた。
ヨットで日本の隅々まで回り、ホームページで詳細な泊地情報を紹介してくれている、有名なヨット乗りの方のお嬢様だった。
<< 太平洋を単独横断したヨットマンと、無線のプロとの出会い >>
62 歳 (2012年) の3月、ヨットの改造、整備が終わり、清水港の富士山羽衣マリーナで進水した。
富士山羽衣マリーナで準備をして、3月 26日に日本周航へ向けて出航した。
初日は御前崎マリーナを目指したが、出港後南西の風が強くなってきたため、初日でもあり無理をせずに焼津港の近くの用宗フィッシャリーナに入ることにした。
フィッシャリーナに入ると、桟橋でもやいを取ってくれた人がいた。
その人は、ヨット 『 風韻 』 のオーナーで、太平洋を単独で渡ったことのある K さんだった。
自分も近い将来太平洋を渡りたいと話したところ、自分のヨットを見せてくれて、いろいろ教えてくれた。
後日、K さんに太平洋横断について 1~10 まで教えて頂いた。
この時、K さんに友人のヨット乗りの無線のプロを紹介して頂いた。
かつてマグロ船の通信長をしていた F さんで、ヨット 『福丸 』 のオーナーだった。
太平洋を渡るのに、何から始めたら良いか全く分からないでいた時に、太平洋単独横断の経験者に巡り会い、ヨットを見せてもらい、いろいろ教えてもらった。
無線の知識が全く無くて困っていたところに、無線のプロとも巡り会うことが出来た。
このことは、夢の実現に向けて大きな一歩になった。
この出航初日、良い風が吹いて、御前崎マリーナにすんなり到着していたら、このお二方に巡り会うことは無く、太平洋横断の夢はどうなっていたか分からない。
<< 日本周航中の出会い >>
62 歳~64 歳までの 3 年間、ヨットで日本を周った。
その間たくさんの方々にお会いして、助けて頂き、教えて頂いた。
太平洋を横断した人にも何人かお会いして、貴重な助言を頂いたり協力して頂いた。
世界を何周も回った人にもお会いした。
<< 夢の実現へ導いてくれた数多くの偶然の出会い >>
夢は、常に忘れることなく、強く思い続けていれば必ず実現するということは昔から言われていた。
しかし、それだけで夢が実現するとは思えなかった。
今、夢が実現して、その道のりを振り返ってみると、数多くの偶然の出会いがあった。
人との出会い、クルーザーヨットとの出会い、仕事との出会い、雑誌の広告との出会い、音楽との出会い、ヨットビルダーとの出会いなど偶然の出逢いが、節目ふしめで夢の実現へ向けて、背中を押してくれたり、自分を引っ張って行ってくれた。
これは、心の片隅ではあっても夢を忘れることなく持ち続けていたことにより、何でもない出会いが貴重な出会いになって、夢の実現へ向けて導いて行ってくれたのだと思っている。
別の見方をすると、何か目に見えない力が、これら貴重な出会いへと導いて行ってくれたのではないかとも思っている。
<< 夢の実現 >>
65 歳の初夏、2015 年 5月 21日早朝、静岡県清水港の富士山羽衣マリーナからサンフランシスコへ向けて出航した。
未明の雷雨がうそのように晴れた。その時の身震いするような緊張感を今でも覚えている。
富士山が楽しんでこいよと見送ってくれた。
同年 7月 13日 午前 7時 30分、ゴールデンゲートブリッジをくぐった。
夢実現の瞬間だった。
長かったなと思った。
それは、夢を抱いてから半世紀余りの時間と、清水港を出てから 55 日目という日数と、両方の想いだった。
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長い間のご愛読有難うございました。
いつか、どこかでお会いできますことを楽しみにしております。

2016 年 11月 20日
ヨット 「TSUYOTAKA」
古賀 道明
追伸 ;
このブログは、FC2 ブログが許してくれる限りこのままにしておきます。
ブログへのコメントは常時ワッチしていますので、ご質問などありましたら、メールアドレスをご記入の上コメントをお寄せ下さい。
2012年、2013年、2014年の日本周航時の航海記録(寄港地情報)も、古くなって、現在の状況に合わなくなっている部分も多いと思いますが、エクセルファイルにまとめてありますので、ご希望される場合はメールアドレスをご記入の上コメントをお寄せ下さい。
太平洋横断往復航海の準備と実際 (その12)
2016-11-18
2016年11月18日(金) 10時45分 記
太平洋横断往復航海の準備と実際 (その12)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間 (2016年11月2日のブログ参照)
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間 (2016年11月9日のブログ参照)
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
3) ハワイ ~ 清水間








































































この直後、グリーンフラッシュが見えた(ような気がした)。
錯覚かもしれないが、太陽が沈み切る時に、一瞬緑色の閃光を発したように思えた。
何ぶん、初めてのことなので、グリーンフラッシュがどのように見えるか分からず、確信が持てなかった。





この日は、太陽は雲の無い水平線に沈んだが、グリーンフラッシュは見えなかった。
グリーンフラッシュの気配も無かった。
うねりがあったので、太陽が沈み切る瞬間が見えなかった。
前日のグリーンフラッシュは、やはり錯覚だったのかと思った。





この日、グリーンフラッシュをはっきり見た。
グリーンフラッシュウオッチングもこの日で3回目なので、落ち着いて双眼鏡を太陽の横に向けて、沈み行く太陽を直接見ないようにして、横目でちらっ、ちらっと見ていた。
すると、太陽が沈み切る直前の1/6 ほどの残りの部分全体が、一瞬緑色になった。
1秒間も無い、ほんの一瞬だったが、はっきり見た。
感動した。




この日もグリーンフラッシュをはっきり見た。
この時は、太陽が沈み切る時にめらめらと緑色の光を発した。
グリーンフラッシュは、いろいろな見え方があるようだ。
・太陽が沈み切る時に、緑色の閃光を発する。
・太陽が残り1/6 ほどになった時に、全体が緑色になる。
・太陽が沈み切る時に、めらめらと緑色の光を発する。
他にも見え方があるかもしれないが、3種類見ることが出来たことは無上の幸せだった。



この日もグリーンフラッシュをはっきり見た。
この時は、太陽が沈み切る前から、残りの部分が緑色になり、最後は緑色の点になって消えて行った。
グリーンフラッシュを、はっきり見たと確信を持てた時が3回あった。
本当に幸せなひと時だった。



昨日まで高気圧の真っただ中に居たので、毎日雲一つ無い快晴だったが、この日からは高気圧から外れて来たので、快晴でも水平線に雲があってグリーンフラッシュを見ることはもう無かった。









グリーンフラッシュは、原理的には朝日でも見ることが出来るらしい。
しかし、朝日でグリーンフラッシュを見ることは難しい。
何故なら、太陽が水平線のどこから顔を出すか、0. 1 秒ほどの一瞬をピンポイントで特定出来ないから。





















































太平洋横断往復航海の準備と実際 (その12)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間 (2016年11月2日のブログ参照)
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間 (2016年11月9日のブログ参照)
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
3) ハワイ ~ 清水間








































































この直後、グリーンフラッシュが見えた(ような気がした)。
錯覚かもしれないが、太陽が沈み切る時に、一瞬緑色の閃光を発したように思えた。
何ぶん、初めてのことなので、グリーンフラッシュがどのように見えるか分からず、確信が持てなかった。





この日は、太陽は雲の無い水平線に沈んだが、グリーンフラッシュは見えなかった。
グリーンフラッシュの気配も無かった。
うねりがあったので、太陽が沈み切る瞬間が見えなかった。
前日のグリーンフラッシュは、やはり錯覚だったのかと思った。





この日、グリーンフラッシュをはっきり見た。
グリーンフラッシュウオッチングもこの日で3回目なので、落ち着いて双眼鏡を太陽の横に向けて、沈み行く太陽を直接見ないようにして、横目でちらっ、ちらっと見ていた。
すると、太陽が沈み切る直前の1/6 ほどの残りの部分全体が、一瞬緑色になった。
1秒間も無い、ほんの一瞬だったが、はっきり見た。
感動した。




この日もグリーンフラッシュをはっきり見た。
この時は、太陽が沈み切る時にめらめらと緑色の光を発した。
グリーンフラッシュは、いろいろな見え方があるようだ。
・太陽が沈み切る時に、緑色の閃光を発する。
・太陽が残り1/6 ほどになった時に、全体が緑色になる。
・太陽が沈み切る時に、めらめらと緑色の光を発する。
他にも見え方があるかもしれないが、3種類見ることが出来たことは無上の幸せだった。



この日もグリーンフラッシュをはっきり見た。
この時は、太陽が沈み切る前から、残りの部分が緑色になり、最後は緑色の点になって消えて行った。
グリーンフラッシュを、はっきり見たと確信を持てた時が3回あった。
本当に幸せなひと時だった。



昨日まで高気圧の真っただ中に居たので、毎日雲一つ無い快晴だったが、この日からは高気圧から外れて来たので、快晴でも水平線に雲があってグリーンフラッシュを見ることはもう無かった。









グリーンフラッシュは、原理的には朝日でも見ることが出来るらしい。
しかし、朝日でグリーンフラッシュを見ることは難しい。
何故なら、太陽が水平線のどこから顔を出すか、0. 1 秒ほどの一瞬をピンポイントで特定出来ないから。





















































太平洋横断往復航海の準備と実際 (その11)
2016-11-09
2016年11月9日(水) 12時 記
太平洋横断往復航海の準備と実際 (その11)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間 (2016年11月2日のブログ参照)
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間
============
23. 航海中の写真集
3) ハワイ ~ 清水間
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23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間











































































1




























































太平洋横断往復航海の準備と実際 (その11)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間 (2016年11月2日のブログ参照)
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間
============
23. 航海中の写真集
3) ハワイ ~ 清水間
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23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間











































































1





























































太平洋横断往復航海の準備と実際 (その10)
2016-11-02
2016年11月2日(水) 22時 記
太平洋横断往復航海の準備と実際 (その10)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間
============
23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間
3) ハワイ ~ 清水間
---------------------------------------------------
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間
生まれて初めて船尾に日章旗を掲揚。身の引き締まる思いだった。

富士山が楽しんでこいよと見送ってくれた。
















































友人にメールで名前を調べてもらった。





雑巾を洗う水に使おうと思い、雨水を溜めてみた。





大型船と遭遇し、衝突コースだったので緊張する。

大型船がコースを変えてくれた。そのことを AIS で知ることが出来た。














キャビン内に居たところ、明らかに波の衝撃とは異なる振動を3度感じた。
コクピットに出てみると、スイーッ、スイーッっという音が聞こえた。
鳥が来たかと思って周りを見ると、右舷 100 m ほどのところを黒い大型生物が 2 頭並んで泳いでいた。最初は、イルカかと思ったが、色が黒いので何だろうかと思っていると、真黒い大型生物が右舷に体を摺り寄せてきた。
驚くとともに、足のすくむ様な恐怖感を覚えた。
長さは、自艇(9 m)より大きいかと思った。目の前の真黒な背中に潮吹き穴があったが、そのすぐ後ろにひょろりと長い背びれがあったので、クジラでは無いと思った。
もしかすると、まだ見たことはないが、これはシャチかもしれないと思った。
慌ててエンジンを掛けたところ離れていってくれた。助かったと思った。
しばらくの間は、恐怖心を拭い去ることが出来ずに海を見つめていた。
留守宅にメールで見た感じを伝えると、インターネットで調べてくれて、シャチであることが分かった。体長は大きいもので 8 m ほどとのことだったが、恐怖感からか自艇よりも大きく感じた。






































幸い好天に恵まれ、心配された霧もなく、ゴールデンゲートブリッジがはっきり見えた。













夢実現の瞬間だった。
長かったなと思った。それは、夢を抱いてから半世紀あまりの時間と、清水港を出てから55日目という日数と、両方の想いだった。






サンフランシスコには、ゴールデンゲートブリッジを望むことができるウエブカメラが設置されていて、インターネットで見ることが出来たようで、友人がその画像を送ってくれた。







サンフランシスコ市街 ~ ゴールデンゲートブリッジ間の景色。















Silicon Valley Sailing Club CEO の南さん(左)と、呉地さんと。

南さんと呉地さんが、税関事務所と連絡を取ってくれて入港手続きをサポートしてくれた。そして、ジャックロンドンスクエアで出迎えてくれたので、本当に助かった。

航海中は肉が食べられなかったので、肉を食べたかった。そして、久し振りのビールで乾杯。







Silicon Valley Sailing Club の皆さんと、ご友人の皆さんには滞在中大変お世話になりました。
心から感謝しています。有難うございました。
太平洋横断往復航海の準備と実際 (その10)
目 次
1. ヨットの紹介 (2016年10月 5日のブログ参照)
2. 船体の準備 (2016年10月10日のブログ参照)
3. 電源設備 (2016年10月11日のブログ参照)
4. 航海計器 ( 〃 )
5. 無線設備 ( 〃 )
6. 法定備品 ( 〃 )
7. その他の準備 (2016年10月13日のブログ参照)
8. 装備の二重化 ( 〃 )
9. 復原性の悪化 (2016年10月25日のブログ参照)
10. 荒天時の対策 ( 〃 )
11. 免許、資格等の準備 (2016年10月26日のブログ参照)
12. チャート ( 〃 )
13. 気象情報の入手 ( 〃 )
14. 船内の生活 (2016年10月27日のブログ参照)
15. 食糧、清水、燃料、医薬品 ( 〃 )
16. 出航日、帰国予定時期の決定 ( 〃 )
17. 航海コース ( 〃 )
18. 航海中のサポート等 (2016年10月29日のブログ参照)
19. 出港手続き、入港手続き ( 〃 )
20. サンフランシスコ、ハワイでのサポート ( 〃 )
21. 航海中のトラブル (2016年10月31日のブログ参照)
22. 航海の総括 ( 〃 )
= 本日紹介分の目次 =
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間
============
23. 航海中の写真集
2) サンフランシスコ ~ ハワイ間
3) ハワイ ~ 清水間
---------------------------------------------------
23. 航海中の写真集
1) 清水 ~ サンフランシスコ間
生まれて初めて船尾に日章旗を掲揚。身の引き締まる思いだった。

富士山が楽しんでこいよと見送ってくれた。
















































友人にメールで名前を調べてもらった。





雑巾を洗う水に使おうと思い、雨水を溜めてみた。





大型船と遭遇し、衝突コースだったので緊張する。

大型船がコースを変えてくれた。そのことを AIS で知ることが出来た。














キャビン内に居たところ、明らかに波の衝撃とは異なる振動を3度感じた。
コクピットに出てみると、スイーッ、スイーッっという音が聞こえた。
鳥が来たかと思って周りを見ると、右舷 100 m ほどのところを黒い大型生物が 2 頭並んで泳いでいた。最初は、イルカかと思ったが、色が黒いので何だろうかと思っていると、真黒い大型生物が右舷に体を摺り寄せてきた。
驚くとともに、足のすくむ様な恐怖感を覚えた。
長さは、自艇(9 m)より大きいかと思った。目の前の真黒な背中に潮吹き穴があったが、そのすぐ後ろにひょろりと長い背びれがあったので、クジラでは無いと思った。
もしかすると、まだ見たことはないが、これはシャチかもしれないと思った。
慌ててエンジンを掛けたところ離れていってくれた。助かったと思った。
しばらくの間は、恐怖心を拭い去ることが出来ずに海を見つめていた。
留守宅にメールで見た感じを伝えると、インターネットで調べてくれて、シャチであることが分かった。体長は大きいもので 8 m ほどとのことだったが、恐怖感からか自艇よりも大きく感じた。






































幸い好天に恵まれ、心配された霧もなく、ゴールデンゲートブリッジがはっきり見えた。













夢実現の瞬間だった。
長かったなと思った。それは、夢を抱いてから半世紀あまりの時間と、清水港を出てから55日目という日数と、両方の想いだった。






サンフランシスコには、ゴールデンゲートブリッジを望むことができるウエブカメラが設置されていて、インターネットで見ることが出来たようで、友人がその画像を送ってくれた。







サンフランシスコ市街 ~ ゴールデンゲートブリッジ間の景色。















Silicon Valley Sailing Club CEO の南さん(左)と、呉地さんと。

南さんと呉地さんが、税関事務所と連絡を取ってくれて入港手続きをサポートしてくれた。そして、ジャックロンドンスクエアで出迎えてくれたので、本当に助かった。

航海中は肉が食べられなかったので、肉を食べたかった。そして、久し振りのビールで乾杯。







Silicon Valley Sailing Club の皆さんと、ご友人の皆さんには滞在中大変お世話になりました。
心から感謝しています。有難うございました。